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愛されない妻の決意

Author: 影畑凛星
last update publish date: 2026-10-13 06:56:20

 離婚しよう。

 そう決意したエレノアだったが、すぐに現実的な問題に突き当たった。

 この国では、結婚は神の前で交わす生涯の誓約だ。夫婦がどれほど憎み合っていようと、簡単に離婚することはできない。

 唯一、婚姻をなかったことにできる方法がある。

 結婚から一年間、夫婦の契りを交わさなかった場合だ。

 その場合に限り、夫または妻が教会に婚姻無効を申し立てることができる。

「一年……」

 エレノアは小さくつぶやいた。

 たった一年。

 前の人生では、五年間もあの男に耐え続けたのだ。

 一年くらい、どうということはない。

 問題は、ヴィンセントがそれを許すかどうかだった。

 彼がエレノアと結婚したのは、跡継ぎを産ませるためだ。愛するリリアーナとは、決して結婚できないから。

 リリアーナはヴィンセントの従妹であり、幼い頃に公爵家の養女となった女性だった。

 血のつながりだけならば婚姻は許される間柄だが、養子縁組によって兄妹となった以上、教会は二人の結婚を認めない。

 だからヴィンセントは、別の女性を妻に迎える必要があった。

 その役目を押しつけられたのが、エレノアだったのだ。

「本当に、馬鹿だったわ……」

 前の人生では、いつか夫が自分を愛してくれると信じていた。

 初夜を義妹の寝室で過ごしたことも、何か事情があったのだろうと自分に言い聞かせた。

 リリアーナが病弱だから、兄であるヴィンセントが気にかけるのは当然なのだと。

 だが、そんなものはすべて言い訳だった。

 ヴィンセントは最初から、エレノアを愛するつもりなどなかったのだ。

 そして、今夜も。

 彼はリリアーナの寝室で、愛する女性を抱いている。

「……好きにすればいいわ」

 不思議なほど、心は静かだった。

 もう嫉妬することもない。

 ただ、あの男に二度と触れられたくない。それだけだった。

 エレノアは寝台から立ち上がり、呼び鈴を鳴らした。

 しばらくすると、先ほどの長身のメイドが現れた。

「何か御用でしょうか、公爵夫人」

 その声には、隠しきれない不満がにじんでいた。

 新婚初夜に夫が姿を見せないというのに、妻の世話をすることすら面倒だという態度だ。

 前の人生では、こんな扱いにも耐えていた。

「私の護衛騎士を呼んでちょうだい」

「……護衛騎士、でございますか?」

「ええ。テオドール・グレイよ」

 メイドはあからさまに眉をひそめた。

「このような夜更けに、男性を寝室にお呼びになるのですか?」

「寝室に呼ぶとは言っていないわ。控えの間で話をするのよ」

「ですが、公爵様がお知りになれば……」

「夫は今夜、こちらにはいらっしゃらないのでしょう?」

 エレノアは静かに微笑んだ。

「あなたがそう言ったのではなくて?」

 メイドは言葉に詰まった。

「それとも、公爵夫人である私が護衛騎士に用を言いつけるにも、あなたの許可が必要なのかしら」

「い、いいえ。そのようなことは……」

「では、お願いね」

 メイドは不承不承、頭を下げて退出した。

 扉が閉まると、エレノアは深く息を吐いた。

 こんなことすら、前の人生ではできなかった。

 公爵家の使用人たちは、主人であるヴィンセントと、彼が溺愛するリリアーナの顔色ばかりうかがっていた。

 正妻であるエレノアの命令など、まともに聞こうともしなかったのだ。

 けれど、もう遠慮する必要はない。

 どうせ一年後には、この家を出ていくのだから。

   ◇

「エレノア様」

 控えの間に姿を現した青年を見た瞬間、エレノアは息をのんだ。

 テオドール・グレイ。

 ヴァレンティア伯爵家で育ち、幼い頃からエレノアのそばにいた護衛騎士。

 柔らかな茶色の髪と、落ち着いた灰色の瞳。

 記憶の中よりも、ずっと若い。

「テオドール……」

「いかがなさいましたか。何かございましたか?」

 心配そうに尋ねる声を聞いた途端、胸が締めつけられた。

 前の人生で、テオドールはいつもエレノアを気遣ってくれた。

 公爵家に嫁いでからも、彼だけは変わらなかった。

 けれど、夫との関係が悪化するにつれ、エレノアは次第に彼を遠ざけるようになってしまった。

 ヴィンセントが、テオドールの存在を快く思わなかったからだ。

 夫に愛されたい一心で、エレノアは自分の味方まで手放してしまった。

「……ごめんなさい」

「エレノア様?」

「いいえ、何でもないの」

 エレノアは首を振った。

 今のテオドールには、何のことかわからないだろう。

 彼はまだ、エレノアから遠ざけられてはいないのだから。

「ひとつ、お願いがあるの」

「何なりとお申しつけください」

「これからは、私の許可なく、誰も私の寝室に入れないでほしいの」

 テオドールは一瞬、目を見開いた。

「……誰も、でございますか?」

「ええ。夫であってもよ」

「公爵閣下も、ですか」

「そうよ」

 エレノアはまっすぐに彼を見つめた。

「私は、ヴィンセント様と寝室を共にするつもりはないの」

 テオドールはすぐには答えなかった。

 当然だろう。

 今夜結婚したばかりの夫婦なのだ。

 その妻が、夫を寝室に入れるなと言っている。

 事情を知らなければ、奇妙な命令に聞こえるに違いない。

「理由を、お尋ねしてもよろしいでしょうか」

「……夫は、今夜ここには来ないわ」

 エレノアは静かに答えた。

「リリアーナ様のお部屋にいらっしゃるの」

 テオドールの表情が変わった。

「それは……」

「知っているのでしょう? あの二人のこと」

 しばらくの沈黙があった。

 やがて、テオドールは苦しげに口を開いた。

「噂は、耳にしております」

「そう」

 やはり、そうだったのだ。

 前の人生では、誰も教えてくれなかった。

 いや、教えてくれようとした者はいたのかもしれない。

 ただ、自分が耳をふさいでいただけなのだろう。

「私は、あの方に愛されることを諦めたわ」

「エレノア様……」

「だから、もう妻としての義務も果たさないつもりよ」

 エレノアは微笑んだ。

「あなたには迷惑をかけるかもしれない。それでも、私を守ってくれる?」

 テオドールは一瞬だけ目を伏せた。

 そして、静かに片膝をついた。

「私の剣は、幼い頃よりあなたのためにございます」

 その言葉に、エレノアの目頭が熱くなった。

「あなたが望まれる限り、私はあなたをお守りいたします」

「……ありがとう、テオドール」

 今度こそ、この人の忠誠を無駄にはしない。

 エレノアは心の中で誓った。

   ◇

 翌朝。

 エレノアは久しぶりに、穏やかな気持ちで目を覚ました。

 結婚初夜だというのに、夫は一度も姿を見せなかった。

 けれど、それでよかった。

 むしろ、ありがたいくらいだった。

 侍女に身支度を整えてもらい、朝食を取ろうとしたときだった。

 廊下から、聞き覚えのある声が響いてきた。

「エレノアはまだ寝ているのか?」

 ヴィンセントだ。

 前の人生でも、彼は翌朝になってようやく妻のもとを訪れた。

 そして、何事もなかったかのように言ったのだ。

 今夜からは夫婦としての務めを果たしてもらう、と。

 エレノアは静かにティーカップを置いた。

 扉が開き、背の高い男が姿を現した。

 美しく整った顔立ち。冷ややかな青い瞳。

 かつては、あれほど愛していた人。

「エレノア」

 ヴィンセントは当然のように部屋へ入ってきた。

「昨夜はリリアーナの具合が悪くてな。そちらに付き添っていた」

「そうですか」

 エレノアは淡々と答えた。

 ヴィンセントは少し眉をひそめた。

 妻が泣いて責めるとでも思っていたのだろうか。

「リリアーナは身体が弱い。今後も、あれのことを優先する場合があるだろう。お前には理解してもらいたい」

「ええ、承知しております」

「……そうか」

 あまりにも素直な返事に、かえって拍子抜けしたようだった。

 だが、すぐに気を取り直したらしい。

「それで、今夜のことだが」

 エレノアは顔を上げた。

「昨夜は初夜を迎えられなかったからな。今夜はお前の寝室へ行く」

 その言葉を聞いても、もう心は揺れなかった。

 前の人生では、ようやく夫が自分を求めてくれたのだと喜んだ。

 愛されているわけではないと、心のどこかで気づいていたのに。

 けれど、今は違う。

「必要ありませんわ」

 エレノアは穏やかに告げた。

 ヴィンセントの動きが止まった。

「……何?」

「今夜も、リリアーナ様のお部屋でお過ごしになってくださいませ」

「エレノア、お前は何を言っている?」

「私は、あなたと寝室を共にするつもりはございません」

 ヴィンセントの顔から、表情が消えた。

「……妻としての務めを拒否するというのか?」

「ええ」

 エレノアは微笑んだ。

「そのつもりですわ」

 ヴィンセントの青い瞳に、怒りが宿った。

 だが、エレノアはもう、その怒りを恐れなかった。

 五年間、何よりも恐れていたもの。

 夫に嫌われること。

 その恐怖は、もう存在しない。

 ――だって、最初から愛されてなどいなかったのだから。

「エレノア。自分が何を言っているのか、わかっているのか?」

 低い声が響いた。

 エレノアは静かにうなずいた。

「もちろんですわ、ヴィンセント様」

 そして、はっきりと告げた。

「私、あなたの子供を産むつもりはございません」

 その瞬間、ヴィンセントの顔色が変わった。

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