LOGIN離婚しよう。
そう決意したエレノアだったが、すぐに現実的な問題に突き当たった。
この国では、結婚は神の前で交わす生涯の誓約だ。夫婦がどれほど憎み合っていようと、簡単に離婚することはできない。
唯一、婚姻をなかったことにできる方法がある。
結婚から一年間、夫婦の契りを交わさなかった場合だ。
その場合に限り、夫または妻が教会に婚姻無効を申し立てることができる。
「一年……」
エレノアは小さくつぶやいた。
たった一年。
前の人生では、五年間もあの男に耐え続けたのだ。
一年くらい、どうということはない。
問題は、ヴィンセントがそれを許すかどうかだった。
彼がエレノアと結婚したのは、跡継ぎを産ませるためだ。愛するリリアーナとは、決して結婚できないから。
リリアーナはヴィンセントの従妹であり、幼い頃に公爵家の養女となった女性だった。
血のつながりだけならば婚姻は許される間柄だが、養子縁組によって兄妹となった以上、教会は二人の結婚を認めない。
だからヴィンセントは、別の女性を妻に迎える必要があった。
その役目を押しつけられたのが、エレノアだったのだ。
「本当に、馬鹿だったわ……」
前の人生では、いつか夫が自分を愛してくれると信じていた。
初夜を義妹の寝室で過ごしたことも、何か事情があったのだろうと自分に言い聞かせた。
リリアーナが病弱だから、兄であるヴィンセントが気にかけるのは当然なのだと。
だが、そんなものはすべて言い訳だった。
ヴィンセントは最初から、エレノアを愛するつもりなどなかったのだ。
そして、今夜も。
彼はリリアーナの寝室で、愛する女性を抱いている。
「……好きにすればいいわ」
不思議なほど、心は静かだった。
もう嫉妬することもない。
ただ、あの男に二度と触れられたくない。それだけだった。
エレノアは寝台から立ち上がり、呼び鈴を鳴らした。
しばらくすると、先ほどの長身のメイドが現れた。
「何か御用でしょうか、公爵夫人」
その声には、隠しきれない不満がにじんでいた。
新婚初夜に夫が姿を見せないというのに、妻の世話をすることすら面倒だという態度だ。
前の人生では、こんな扱いにも耐えていた。
「私の護衛騎士を呼んでちょうだい」
「……護衛騎士、でございますか?」
「ええ。テオドール・グレイよ」
メイドはあからさまに眉をひそめた。
「このような夜更けに、男性を寝室にお呼びになるのですか?」
「寝室に呼ぶとは言っていないわ。控えの間で話をするのよ」
「ですが、公爵様がお知りになれば……」
「夫は今夜、こちらにはいらっしゃらないのでしょう?」
エレノアは静かに微笑んだ。
「あなたがそう言ったのではなくて?」
メイドは言葉に詰まった。
「それとも、公爵夫人である私が護衛騎士に用を言いつけるにも、あなたの許可が必要なのかしら」
「い、いいえ。そのようなことは……」
「では、お願いね」
メイドは不承不承、頭を下げて退出した。
扉が閉まると、エレノアは深く息を吐いた。
こんなことすら、前の人生ではできなかった。
公爵家の使用人たちは、主人であるヴィンセントと、彼が溺愛するリリアーナの顔色ばかりうかがっていた。
正妻であるエレノアの命令など、まともに聞こうともしなかったのだ。
けれど、もう遠慮する必要はない。
どうせ一年後には、この家を出ていくのだから。
◇
「エレノア様」
控えの間に姿を現した青年を見た瞬間、エレノアは息をのんだ。
テオドール・グレイ。
ヴァレンティア伯爵家で育ち、幼い頃からエレノアのそばにいた護衛騎士。
柔らかな茶色の髪と、落ち着いた灰色の瞳。
記憶の中よりも、ずっと若い。
「テオドール……」
「いかがなさいましたか。何かございましたか?」
心配そうに尋ねる声を聞いた途端、胸が締めつけられた。
前の人生で、テオドールはいつもエレノアを気遣ってくれた。
公爵家に嫁いでからも、彼だけは変わらなかった。
けれど、夫との関係が悪化するにつれ、エレノアは次第に彼を遠ざけるようになってしまった。
ヴィンセントが、テオドールの存在を快く思わなかったからだ。
夫に愛されたい一心で、エレノアは自分の味方まで手放してしまった。
「……ごめんなさい」
「エレノア様?」
「いいえ、何でもないの」
エレノアは首を振った。
今のテオドールには、何のことかわからないだろう。
彼はまだ、エレノアから遠ざけられてはいないのだから。
「ひとつ、お願いがあるの」
「何なりとお申しつけください」
「これからは、私の許可なく、誰も私の寝室に入れないでほしいの」
テオドールは一瞬、目を見開いた。
「……誰も、でございますか?」
「ええ。夫であってもよ」
「公爵閣下も、ですか」
「そうよ」
エレノアはまっすぐに彼を見つめた。
「私は、ヴィンセント様と寝室を共にするつもりはないの」
テオドールはすぐには答えなかった。
当然だろう。
今夜結婚したばかりの夫婦なのだ。
その妻が、夫を寝室に入れるなと言っている。
事情を知らなければ、奇妙な命令に聞こえるに違いない。
「理由を、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「……夫は、今夜ここには来ないわ」
エレノアは静かに答えた。
「リリアーナ様のお部屋にいらっしゃるの」
テオドールの表情が変わった。
「それは……」
「知っているのでしょう? あの二人のこと」
しばらくの沈黙があった。
やがて、テオドールは苦しげに口を開いた。
「噂は、耳にしております」
「そう」
やはり、そうだったのだ。
前の人生では、誰も教えてくれなかった。
いや、教えてくれようとした者はいたのかもしれない。
ただ、自分が耳をふさいでいただけなのだろう。
「私は、あの方に愛されることを諦めたわ」
「エレノア様……」
「だから、もう妻としての義務も果たさないつもりよ」
エレノアは微笑んだ。
「あなたには迷惑をかけるかもしれない。それでも、私を守ってくれる?」
テオドールは一瞬だけ目を伏せた。
そして、静かに片膝をついた。
「私の剣は、幼い頃よりあなたのためにございます」
その言葉に、エレノアの目頭が熱くなった。
「あなたが望まれる限り、私はあなたをお守りいたします」
「……ありがとう、テオドール」
今度こそ、この人の忠誠を無駄にはしない。
エレノアは心の中で誓った。
◇
翌朝。
エレノアは久しぶりに、穏やかな気持ちで目を覚ました。
結婚初夜だというのに、夫は一度も姿を見せなかった。
けれど、それでよかった。
むしろ、ありがたいくらいだった。
侍女に身支度を整えてもらい、朝食を取ろうとしたときだった。
廊下から、聞き覚えのある声が響いてきた。
「エレノアはまだ寝ているのか?」
ヴィンセントだ。
前の人生でも、彼は翌朝になってようやく妻のもとを訪れた。
そして、何事もなかったかのように言ったのだ。
今夜からは夫婦としての務めを果たしてもらう、と。
エレノアは静かにティーカップを置いた。
扉が開き、背の高い男が姿を現した。
美しく整った顔立ち。冷ややかな青い瞳。
かつては、あれほど愛していた人。
「エレノア」
ヴィンセントは当然のように部屋へ入ってきた。
「昨夜はリリアーナの具合が悪くてな。そちらに付き添っていた」
「そうですか」
エレノアは淡々と答えた。
ヴィンセントは少し眉をひそめた。
妻が泣いて責めるとでも思っていたのだろうか。
「リリアーナは身体が弱い。今後も、あれのことを優先する場合があるだろう。お前には理解してもらいたい」
「ええ、承知しております」
「……そうか」
あまりにも素直な返事に、かえって拍子抜けしたようだった。
だが、すぐに気を取り直したらしい。
「それで、今夜のことだが」
エレノアは顔を上げた。
「昨夜は初夜を迎えられなかったからな。今夜はお前の寝室へ行く」
その言葉を聞いても、もう心は揺れなかった。
前の人生では、ようやく夫が自分を求めてくれたのだと喜んだ。
愛されているわけではないと、心のどこかで気づいていたのに。
けれど、今は違う。
「必要ありませんわ」
エレノアは穏やかに告げた。
ヴィンセントの動きが止まった。
「……何?」
「今夜も、リリアーナ様のお部屋でお過ごしになってくださいませ」
「エレノア、お前は何を言っている?」
「私は、あなたと寝室を共にするつもりはございません」
ヴィンセントの顔から、表情が消えた。
「……妻としての務めを拒否するというのか?」
「ええ」
エレノアは微笑んだ。
「そのつもりですわ」
ヴィンセントの青い瞳に、怒りが宿った。
だが、エレノアはもう、その怒りを恐れなかった。
五年間、何よりも恐れていたもの。
夫に嫌われること。
その恐怖は、もう存在しない。
――だって、最初から愛されてなどいなかったのだから。
「エレノア。自分が何を言っているのか、わかっているのか?」
低い声が響いた。
エレノアは静かにうなずいた。
「もちろんですわ、ヴィンセント様」
そして、はっきりと告げた。
「私、あなたの子供を産むつもりはございません」
その瞬間、ヴィンセントの顔色が変わった。
「その格好で来たのか?」 翌朝、ヴィンセントはエレノアを見るなり顔をしかめた。 エレノアは思わず自分のドレスに目を落とした。 昨日から着替えていない。離れには侍女もおらず、持ち込んだ荷物もまだ開けられないままだった。「着替えを手伝ってくれる者がおりませんでしたので」「言い訳はいい。公爵夫人なら、もう少し身なりに気を遣え」 エレノアは唇を噛んだ。 昨夜、執事が届けてくれたのは燭台と毛布だけだった。 寝台には埃が積もっていて、とても横になれなかった。結局、椅子に毛布をかけ、ほとんど眠れないまま朝を迎えたのだ。「それで、今後の待遇についてお話があるとか」 エレノアが尋ねると、ヴィンセントは椅子に深く腰掛けた。「ああ。いつまでもあんな場所で暮らしたくはないだろう?」「当然です」「なら、話は簡単だ」 ヴィンセントは机の上に一枚の紙を置いた。「これに署名しろ」 エレノアは差し出された紙に目を通した。 そこには、今後は夫の意向に従い、公爵夫人としての務めを果たすことを誓う、と書かれていた。「……これは」「お前が約束を守るなら、元の部屋に戻してやる。侍女もつけよう」「夫の意向に従う、というのは?」「わかっているだろう。もう寝室で騒ぎを起こすなということだ」 エレノアは紙を机に戻した。「署名できません」 ヴィンセントの眉が跳ね上がった。「まだ強情を張るつもりか?」「私の意思を無視して寝室に押し入ることを、やめていただきたいだけです」「お前は俺の妻だぞ!」 ヴィンセントが机を叩いた。「跡継ぎを産むのが、お前の役目だろう!」「そのために、あの離れに閉じ込めたのですか?」「お前が素直に言うことを聞けば済む話だ」 エレノアは目の前の紙を見つめた。
日が暮れ始めても、誰も来なかった。 エレノアは離れの窓から、何度も本邸へ続く小道を眺めた。 執事は寝具を届けると言っていた。食事も運ばれてくるはずだった。 けれど、夕暮れの庭園には人影ひとつない。 窓辺に立ち続けているうちに、足が痛くなってきた。 椅子には埃が積もっている。仕方なくハンカチを敷いて腰を下ろしたものの、座面から舞い上がった埃に咳き込んでしまった。「……どうしましょう」 もう一度、寝室を見回す。 日が落ちれば、明かりも必要になる。けれど、燭台はあっても蝋燭が見当たらなかった。 このまま夜になったら、真っ暗な部屋で過ごすことになる。 そのとき、ようやく扉の開く音がした。「奥様、お食事をお持ちしました」 若い下働きの娘が、盆を抱えて立っていた。「ああ、よかった。あなた、少し待ってちょうだい」 エレノアは思わず駆け寄った。「寝具はまだ届いていないの。それに、この部屋のお掃除も……」「申し訳ございません。私はお食事を運ぶようにとしか」「では、ほかの方を呼んでいただける?」 娘は困ったように視線を落とした。「離れには、ほかの者を寄越さないようにと言われております」「……誰に?」「執事長でございます」 エレノアは言葉を失った。 娘は小さな卓の上に盆を置くと、慌ただしく頭を下げた。「それでは、失礼いたします」「待って!」 呼び止めると、娘はびくりと肩を震わせた。 エレノアはその様子に気づき、声を和らげた。「せめて、明かりを持ってきてもらえないかしら。夜になったら何も見えなくなってしまうわ」「……聞いてまいります」 娘はそう答え、逃げるように離れを出ていった。 卓に残されたのは、冷めかけたスープと硬いパンだった。 水の入った杯もひとつだけ。 エレノアは盆を見つめた。 食事を運んでくれた娘が悪いわけではない。 けれど、なぜこんなことになってしまったのだろう。 やがて窓の外が暗くなり、部屋の隅から闇が広がり始めた。 娘は戻ってこなかった。 エレノアは扉の近くに立ち、廊下へ目を凝らした。 暗闇の中で、どこかの木材がきしむ音がした。「……誰か?」 返事はない。 もう一度呼びかけようとしたとき、外から足音が聞こえた。 ようやく明かりを持ってきてくれたのだろうか。 エレノアは扉に駆け寄った。
「……ここで暮らせとおっしゃるの?」 エレノアは、目の前の建物を見上げた。 公爵邸の庭園の奥に建つ、古い離れだった。 外壁には蔦が絡まり、窓枠の塗装は剥がれている。屋根の一部には苔まで生えていた。「公爵閣下のご命令でございます」 執事は淡々と答えた。「奥様には、しばらくこちらで静養していただくようにと」「静養……?」 エレノアは思わず聞き返した。 どう見ても、人が療養するような建物ではない。 扉を開けると、かび臭い空気が流れ出してきた。 廊下には埃が積もり、壁際には蜘蛛の巣が張っている。窓は汚れで曇り、昼間だというのに薄暗かった。 寝室に案内されると、エレノアはとうとう言葉を失った。 寝台にはシーツもなく、天蓋には大きな蜘蛛の巣が張っていた。 古びた布をかぶせられた家具は、触れただけで埃が舞い上がりそうだった。「……お掃除は?」「急なご命令でしたので、準備が間に合いませんでした」「では、侍女を呼んでいただける?」「本邸の使用人は、こちらへ常駐いたしません」「……え?」 エレノアは執事を見つめた。「では、誰がこの部屋を片づけるの?」「必要なことがございましたら、お申しつけください」「誰に?」「お食事をお運びする者に、お伝えいただければ」 エレノアは言葉を失った。 水差しも、洗面道具もない。 暖炉には古い灰が残り、薪も用意されていなかった。「……今夜は、どうやって眠ればいいのかしら」「寝具は後ほどお届けいたします」 執事はそれだけ告げると、一礼して部屋を出ていった。 扉が閉まり、足音が遠ざかっていく。 エレノアは、ひとり取り残された。 部屋を見回しても、座れる場所さえ見当たらない。 寝台は埃だらけで、椅子には蜘蛛の巣が張っている。 これまで、部屋が汚れていたことなど一度もなかった。 朝起きれば、侍女が洗面の支度を整えてくれた。夜には湯が用意され、寝台には清潔なシーツが敷かれていた。 そのどれもが、今はない。 エレノアは寝室から廊下へ出てみた。 けれど、どの部屋も同じように荒れ果てている。 呼び鈴を探しても見つからず、誰かの名前を呼んでみても返事はなかった。 どうしたらいいのだろう。 誰に頼めば、この部屋を使えるようにしてもらえるのだろう。 エレノアは途方に暮れた。 こんな場所で一晩
鍵が外れた。 エレノアは扉から後ずさった。 昨夜はテオドールが助けてくれた。けれど、今夜は誰もいない。「エレノア、椅子をどけろ」 扉の向こうから、ヴィンセントの声がした。「お断りいたします!」「いつまでそんな真似を続けるつもりだ!」 扉が強く押され、前に置いた椅子が床をこすった。 エレノアは慌てて寝台の反対側へ回った。 もう、逃げ道はない。 やがて椅子が押しのけられ、扉が開いた。「……ずいぶん手間をかけさせてくれたな」 ヴィンセントが入ってきた。 背後には、鍵を開けた使用人が控えている。「下がれ」 ヴィンセントが命じると、使用人は頭を下げて立ち去った。 扉が閉まる。「さて、エレノア」 夫はゆっくりと近づいてきた。「今夜こそ、妻としての務めを果たしてもらう」「嫌です」「まだ言うか!」 ヴィンセントが腕を伸ばした。 エレノアは身をかわし、化粧台のそばに逃れた。「近づかないで!」「私を何だと思っている!」「私の言葉を聞いてくださらない方だと思っています!」 ヴィンセントの顔が怒りに染まった。「お前は本当に、どうかしてしまったようだな!」 そのとき、エレノアの指先が化粧台の上の小瓶に触れた。 香水瓶だった。 エレノアはそれをつかみ、床に投げつけた。 甲高い音とともに、瓶が砕け散る。「何をする!」「それ以上近づかないでください!」 エレノアは震える声で叫んだ。「これ以上無理強いなさるなら、窓を開けて助けを呼びます!」「……何?」「使用人にも、庭にいる者にも聞こえるように叫びます。公爵様が妻に何をなさろうとしているのか、皆に知っていただきます!」 ヴィンセントの動きが止まった。 彼が恐れているのは、妻が傷つくことではない。 自分の評判が傷つくことなのだ。「……私に恥をかかせるつもりか」「あなたが何もなさらなければ、叫ぶ必要はございません」 ヴィンセントはしばらくエレノアをにらみつけていた。 やがて、忌々しげに舌打ちした。「勝手にしろ!」 乱暴に扉を開け、部屋を出ていく。 エレノアは、その場に崩れ落ちた。 怖かった。 けれど、今夜も守り抜いた。 あと一年。 この調子で、本当に乗り切れるのだろうか。 ◇ 翌朝、エレノアのもとに執事が訪れた。「奥様。公爵閣下より、お伝
「明日の夜は、誰もお前を助けには来ない」 ヴィンセントの言葉に、エレノアは血の気が引くのを感じた。 この男は、何をするつもりなのだろう。 妻が拒んでいることを知りながら、護衛騎士を追い出し、誰にも邪魔されない状況を作ろうとしている。 しかも、それを隠そうともしない。「……私が嫌だと申し上げても、寝室にいらっしゃるおつもりですか?」「当然だ。お前は私の妻なのだから」「それは、夫婦だからという理由で、私の意思を無視してもいいということですか?」「またその話か」 ヴィンセントはうんざりしたように眉をひそめた。「いつまでも子供じみたことを言うな。結婚した以上、妻には果たすべき務めがある」 エレノアは、つかまれた腕に残る赤い痕を見下ろした。 昨夜の恐怖が、まだ身体に残っている。 それなのに、この男は何ひとつ反省していない。「……わかりました」 エレノアは静かに答えた。 ヴィンセントが満足そうに口元を緩める。「ようやく理解したか」「いいえ。あなたが私の言葉を聞くつもりがないことを、理解しただけです」「何だと?」「これ以上お話ししても無駄ですわ」 エレノアは夫から目をそらさなかった。「ですが、私の答えは変わりません」 ヴィンセントの表情が再び険しくなった。「……勝手にしろ。明日になれば、嫌でも自分の立場を思い知るだろう」 そう言い捨てると、彼は部屋を出ていった。 扉が閉まる。 エレノアは、その場に立ち尽くした。 怖くないと言えば、嘘になる。 けれど、ここで屈するわけにはいかなかった。 あと一年。 夫婦関係を持たずに一年を過ごせば、婚姻無効を申し立てることができる。 そのために、今度こそ自分の身体を守り抜かなければならない。 ◇「申し訳ございません、エレノア様」 テオドールは深く頭を下げた。 彼の部屋には、すでに荷物がまとめられていた。「私のせいで、このようなことに……」「あなたのせいではないわ」 エレノアは首を振った。「悪いのはヴィンセント様よ。あなたは私を守ってくれただけ」「ですが、結果としておそばを離れることになってしまいました」 テオドールの声には、悔しさがにじんでいた。 エレノアは、彼の手元に置かれた旅行鞄を見つめた。 幼い頃から、テオドールはいつもそばにいてくれた。 父親の領
翌朝、エレノアは父親に宛てた手紙を封筒に入れ、封蝋を施した。 昨夜、ヴィンセントがリリアーナと庭園の木陰へ消えていった光景を思い出す。 前の人生なら、きっと一晩中泣いていただろう。 けれど、今は違う。 あの二人が何をしていようと、もう構わない。 問題は、ヴィンセントがエレノアを放っておいてくれないことだった。 妻としての務めを果たせと怒鳴り、拒めば力ずくで従わせようとする。 あの男と同じ屋敷で、あと一年を過ごさなくてはならない。 そう考えるだけで、気が重かった。「この手紙を、実家へ送ってちょうだい」 エレノアは、朝の支度を手伝っていた侍女に封筒を渡した。「承知いたしました、奥様」「なるべく早くお願いね」「はい。すぐに執事へお渡しいたします」 侍女は丁寧に頭を下げ、部屋を出ていった。 エレノアは、ほっと息をついた。 父親は、娘の結婚を心から喜んでくれていた。 まさか、その結婚がこんなことになるとは思っていないだろう。 前の人生では、父親に夫婦の問題を打ち明けたことなど一度もなかった。 結婚した以上、夫に従うのが妻の務め。 愛されなくても、我慢するのが当然。 そう信じていたからだ。 けれど、今は違う。 父親が事情を知れば、きっと力になってくれる。 少なくとも、ヴィンセントが一方的に夫婦の務めを強要することについて、相談できるはずだった。 エレノアは窓の外を見つめた。 朝日を浴びた庭園は、昨夜の出来事など何もなかったかのように美しかった。 ◇「ヴァレンティア伯爵宛ての手紙?」 執務室で書類に目を通していたヴィンセントは、執事の言葉に顔を上げた。「はい。奥様からお預かりいたしました」 執事が封筒を差し出す。 差出人には、エレノアの名前が記されていた。 ヴィンセントの眉間に、深い皺が刻まれる。「……何を書くつもりだ?」「内容までは存じません」「貸せ」 ヴィンセントは封筒を受け取ると、ためらいもなく封を破った。 執事は一瞬だけ目を伏せたが、何も言わなかった。 手紙には、結婚初夜からの出来事が簡潔に記されていた。 夫が義妹の部屋で夜を過ごしたこと。 夫婦の寝室を共にするよう求められたが、拒絶したこと。 そして、昨夜は無理やり寝台へ連れていかれそうになり、護衛騎士に助けられたこと。 最後に